IE9ピン留め

《関が原》 敵中突破!

秀吉が存命だった頃に行われた朝鮮遠征の際、島津義弘の率いる島津隊はわずか8000人での篭城作戦をした際、攻めて来る明国の兵20万人を相手に、これを見事撃破して、明・朝鮮国からは「石曼子(シーマンズ)」と呼ばれ、恐れられていたのです。

そんな逸話を知る東軍兵士たちは、戦闘態勢をとる島津隊に対して、うかつに仕掛けられず、西軍の残党狩りも終わりに近づいた関が原は、ヘンな緊張が生まれていました。

もはや、ヘタな抵抗は無意味だと確信している義弘ですが、実は

「退却したくても、こんな土地来た事ないから、〝帰り道〟が解らない…(-_-;)」

という事情がありました。義弘をはじめここに集っている島津兵の多くは地元の薩摩と大阪の行き来はしていても、大阪より東の東海地方の地理には全然疎かったのです。

ですから義弘は、全員で散り散りになって山に逃げ込んでも、残党狩りに遭ってヘタすりゃ全滅するのがオチであり、少しでも多くの仲間が薩摩に生還できる方法を考えていました。

そして、義弘が下した結論は、

「全員で〝来た道〟を帰る! 家康の本陣を掠めて関が原を縦断し、伊勢街道まで退却じゃ~!ヽ(`Д´)9」

というわけです。つまり敵の正面を突破して、〝帰り道〟のわかる伊勢街道へ退却しようというものでした。

この合戦史上前代未聞の〝敵正面への退却〟という作戦を、島津隊は敢行したのです。これが

〝関が原 最後の戦い〟

でした。

# by dsfgs5 | 2009-02-12 17:26 | 《関が原》 敵中突破!

脱出-1 島津家の場合

「進めぇ~~!! ヽ(`皿´)ノ」

という島津義弘の掛け声と共に、〝日本最強〟と言われる島津兵の部隊は家康おやぢの本陣に向けて突進を始めました。

「今頃、特攻かよ? ( ̄□ ̄;)!!」

迫り来る島津隊を見て、一瞬家康はビビりましたが、島津隊は家康本陣の前まで来ると、突如進路を南に変え、そのまま本陣を掠めるように走り去っていきます。

まさか帰り道が解らないから、正面に退却したとは思わない家康は、義弘におちょくられたと思って激怒し、

「義弘を生かして帰すな! ヽ(`Д´)ノ 」

と東軍大名たちに追撃を命じました。

戦闘が終結し、〝まったりモード〟に入りかけていた東軍大名たちは、突如下った家康からの命令に、慌てて逃げる島津隊を追いかけます。

部下を救おうとして、正面突破を敢行した義弘ですが、そんな義弘を慕って自費でこの戦場に集まった島津兵たちも、

「維新入道(義弘の呼称)様だけは、無事薩摩まで帰って頂けなければ! ( ̄皿 ̄)9」

という思いで、追撃してくる東軍兵士たちに死に物狂いで戦いを挑んでいきました。

中には義弘の振りをして敵を引き付ける者、あるいは逃げるのを止めてその場に座り込み、持っていた鉄砲でしっかり狙いを付けて撃つ〝ステガマリ〟と呼ばれる戦法で敵を食い止める者など、自分の命と引き換えに義弘を落ち延びさせようとしたのです。

この決死の脱出作戦が成功だといえるかどうかは微妙なところで、義弘は無事薩摩まで帰る事ができましたが、彼が率いていた1600名の兵士は、60数名にまで減っていました。

しかし、この死をも恐れぬ島津兵の強さは、家康たち東軍の大名たちは思い知ったのです。

# by dsfgs5 | 2009-02-12 17:25 | 脱出-1 島津家の場合

脱出-2 毛利・長曽我部の場合

関が原の平野の中には、すでに西軍兵の姿はなく、家康の命令で東軍兵が島津隊の追撃を始めた頃、南宮山に陣取って〝空弁当〟を食っていた毛利秀元は愕然とします。

気づいてみれば、西軍はボロ負けで、今更攻め込んだ所で逆に返り討ち遭ってボコボコにされるのが関の山です。

一説には、秀元はこの時初めて吉川広家の裏切りに気づいたと言われていますが、本当の所はよくわかりません。しかも、戦場ではそろそろ、手柄を立てそこねた東軍の連中が、せめて残党狩りで点数を稼ごうと、こちらに向かって来ていました。

もはや、『関が原の戦い』の決着はつき、西軍に加担した大名は、すべて家康おやぢから〝戦犯〟として裁かれる事は間違いありません。

不幸中の幸い…というか、毛利軍は東軍に対して、火縄銃の一発、弓矢の一本も放っていません。それを言い訳に毛利家への処分を軽くしてもらうしか手はないわけです。

そんな〝戦後処理〟に頭を悩ませながら、秀元は広家と共に戦場を離脱しました。

一方、西軍のプロデューサーの一人である安国寺恵瓊は、家康から〝名指し〟で捕縛命令が出されており、秀元たちと行動を共にするわけにもいかず、伊勢に逃げたのですが、後に京都に潜伏中のところを東軍方に確保されます。

毛利家以上に

〝何の為に関が原まで来たのかわからない大名〟

といえば、土佐の長宗我部盛親でしょう。

盛親はその布陣した場所を見て、もともと戦う気がなかったのではないか?という歴史学者もいますが、その後の戦後処理を考えると、東軍へ寝返っていたとも思えません。

とにかく、毛利家が逃げ仕度を始めて、やっと関が原の状況がわかるようになってみれば、すでに西軍の敗北は決定的になっており、盛親も東軍の残党狩りから逃れながら、ボロボロになりつつ土佐に帰ったのでした。

# by dsfgs5 | 2009-02-12 17:24 | 脱出-2 毛利・長曽我部の場合

脱出-3 石田光成の場合

石田光成は、家康おやぢとの再戦をする為に単身、関が原を脱出します。豊臣政権を守る為には、家康は絶対に倒さなければならない相手であり、光成は

〝勝つまで、何度でも戦っちゃる! ( ̄皿 ̄)〟

と決心しているのです。

光成の脱出ルートは、関が原の北側にそびえる伊吹山の東側を抜けて北上し、ぐるりと回って琵琶湖の北側に出てから、京都辺りに潜伏する予定だったらしいのですが、前述のように決戦前日に降った雨で腹を冷やしてしまった光成は、合戦中もひどい腹痛と下痢に悩まされており、脱出の際も途中で体力を使い果たしてしまいました。

光成にとってラッキーだったのは、この付近が自分の生まれ故郷である近江に近く、土地勘とコネがあった事でしょう。

フラフラになりつつも、光成は古橋村(現在の滋賀県伊香郡)まで逃げ延び、そこで体力を回復させる事にしました。

家康にとっても、光成は絶対に見つけて殺してしまわなければならない相手です。

光成自身に再び兵力を集める事が出来ないとしても、光成を利用して天下を狙う大名が光成を匿ったりしたら、後々面倒な事になりかねません。

ですから、家康は関が原近郊の村々に、

「石田光成を探しちょる! 光成を見つけて確保できたら、その村は永久に年貢米を免除しちゃる! また、光成を匿ったりしたら、その村は全員処刑じゃ! ヽ(`Д´)b」

というお触れを流して、徹底した〝光成狩り〟を展開したのです。

# by dsfgs5 | 2009-02-12 17:23 | 脱出-3 石田光成の場合

光成の最期

石田光成を匿っていた古橋村の農民はそんなお触れが出ても、光成を捜索隊に売り渡すようなマネはしませんでしたが、光成自身が、村に迷惑が掛かる事を嫌い、農民に通報させて、捜索隊に捕縛されました。

光成は他にほ捕縛された安国寺恵瓊と共に、大阪や堺などを引き回しされた後に、京都の六条河原で斬首の刑に処され、その首は同じく京都の三条河原に晒されたそうです。

そんな光成の有名なエピソードとして、斬首されるために刑場へ向かう光成が、

「喉が渇いた。白湯をくれ」

と護送役の組頭に言うと、組頭はいちいち白湯を用意するのが面倒くさくて、たまたま持っていた干し柿を差し出しました。

すると光成は

「干し柿は痰の毒だ」

といって食わなかったそうです。

「これから死ぬヤツが、身体の健康を心配してどうする? ┐('~`)┌」

とあざ笑った組頭に対して光成は、

「大望があるものは、最後の最後まで諦めんものじゃ! ヽ(`Д´)9」

と一喝しました。

光成が、本当に豊臣政権の為を願って、家康おやぢに戦いを挑んだのは、彼の性格を考えて間違いはないと思われますが、もし、光成が家康を倒して豊臣政権を守った場合、その後の日本が〝戦のない社会〟になっていたか?というと難しい問題です。

おそらく、家康のほかにも現れる〝天下を狙う大名〟の登場で、世の中は再び戦国時代に逆戻りしてしまったかもしれません。そういう意味では光成の死は、〝戦のない社会〟を作るための礎だったと言えるでしょう。

# by dsfgs5 | 2009-02-08 11:40 | 光成の最期

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